イナGOの世界観を考える

限界オタクの記録

懐古の危険性

私は「イナズマイレブンGO」が好きだ。そして、当時の平成時代も好きだ。学校帰りの夕方に公園に集い友達と対戦したり、必殺技を真似しながらサッカーをしたり。GOで新たな展開が訪れる度に、その話題が学校で出るのが楽しかった。しかし、令和となりGOが好きな友達か周りにいない今はそのようなことができない。

だから、GOが放送されていた当時に戻りたい。そう思うことが今は多々ある。



さて、話は変わるが今朝ある映画を観た。クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』だ。クレヨンしんちゃんは子供向けのアニメだが、この作品は子供向けではなく、大人に刺さるメッセージ性の強い作品だとかなり注目された映画だ。ストーリーを詳しく言えばネタバレになってしまうが、映画のメッセージ性の要点は「ノスタルジーは魅力的だがそれに溺れてはいけない」ということだ(と私は解釈した)。「ノスタルジー」は日本語に変えると「懐古」や「郷愁」といった意味になる。(以降の文章ではわかりやすく表現するため「懐古」と表現する。)

この作品のストーリーとしては、大まかに言うと「昭和時代に幼少期を過ごした"オトナ"が、平成時代に"オトナ"のための世界をつくる」話だ。よく「昭和は人情に溢れた時代だった」などと昔を懐かしむ大人が身の回りにいるが、正にそのような人間がこの作品でいう"オトナ"である。

この"オトナ"は、自らが幼いときに見ていた「世界」を思い出すと途端に懐かしむ。当初流行っていたウルトラマン魔法少女などを何らかのきっかけで思い出すと、それを楽しんでいた時代にふと戻りたくなる。いま生きている現在に楽しさや充実感を見いだせないなら尚更その思いは強くなる。

先の見えない「未来」は怖い。何が起こるかわからないし、リスクのあることを選択しなければいけない瞬間が必ず訪れる。しかし、「過去」は既知だ。いつ楽しいことがあったか、何が楽しかったかまでわかる。

そんな「未来への恐怖」は、懐古する方向へ人間を誘導するのだとこの作品を観て気づいた。

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さて、ここまでの話を見てあなたは何かを感じただろうか。それは読み手それぞれに感じることは違うだろう。だが、幼少期からある一定の年齢を重ねた人ならばおそらくこう思うだろう。「この話、わかるかも」と。


小さい頃に戻りたいと思うことはないか。

あの頃のテレビ、ゲーム、地域を懐かしむ経験はないか。

あの頃が一番楽しかった。そう思うことはないか。

引越した後、住んでいた家の周りを歩き、懐かしい風を全身に浴びて「心地いい」と感じたことはないか。




この感覚は俗に「懐古」と呼ばれるものだ。それを列挙し、その感覚をした経験があるかを、いまあなたに訴えかけた。それがある人も、ない人も是非この先は読んでほしい。というかこの長い文章をここまで読んでくれたあなたはすごいと心から思う。



題名にもある通り、重度の「懐古」は危険性を含んでいる。どんな危険性があるかを箇条書きにして以下にまとめた。

・現実逃避を促す
・「いまこの瞬間」を見失う
・懐古をし続けた先は虚無に陥る


順に説明する。

  • 「現実逃避を促す」

「あの頃に戻りたい」と思うことは、すなわち「現在にいたくない」「現在に満足していない」こととほぼ同義だ。(過去に不満があってそれを変えたいと思うから過去に戻りたいと思うことは別。それは懐古ではないのでこの危険性に当てはまらない)

懐古すればするほど、嫌な現実から遠ざかり、次第に心地よくなっていく。快適な世界にどっぷりと浸かる。嫌な現実から逃避できる。…ということだ。



  • 「『いまこの瞬間』を見失う」

懐古すると、「いま」起きてる楽しいことや幸せなことを見つけられなくなる。

わかりやすい例えをしよう。
先ほども述べたが、高齢者からよく聞く台詞で「あの頃は人情があって、みんなで支え合っていた」という言葉。戦争を経験していた方が多く実際にそうだったと思うので、あながち間違いではないのだろう。しかし、だからといって「いま」がそうでないとは言い切れない。違う形で皆が支え合っているかもしれない。そうでなくても、その人情が失われたことによって良い点が生まれたかもしれない。それをたった一言で切り捨てるのは違うなあと個人的には思う。


また、オタクにわかりやすい例えをしよう。
自分が最も好きな作品が、仮に更新終了したとする。すると、重度にその作品を愛するファンにまず訪れるのは虚無感。二度と自分が愛するものは現れない。すると、他の作品を見ても「ハマらなく」なる。別の表現をすると、面白いものは見つかれど、ズシンと「これだ!」と感じられないのである。私の場合、それがイナGOだった訳だ。このような経験がある人は今頃「そうそう!」と頷きながらこれを読んでいるだろうと思う。



  • 「懐古し続けた先は虚無に陥る」

これなんだ。これなんだよ……。懐古が一番怖い理由がこれ。大きな声で言いたい。「懐古の先は虚無だぞ!!」だと。

あまりに懐古し続けた経験がある方はきっとわかってもらえるだろうと思う。

ずっとその沼にしがみついて離れられない。別の沼に行ってみるも結局愛せなくて元の沼に戻る。それはかなり辛い。辛くてたまらない。きっとそのようなジャンルは多く存在することだろう。それは立派な懐古だと私は自身の経験からそう思う。というか、クレしんを観て初めてそのような側面を気づき、捉えた。


なぜ懐古し続けると虚無に陥るか。
それは、「その作品が更新されないから」に尽きる。

自分が長年築いてきた宝物のような記憶を壊さないように、または壊されないように大事に大事に保管する。昔のゲームをして、わかりきった展開を再体験し、「ああ楽しかったな」と実感して終わる。新たな驚きはそこにはない。細かく言うと、「知らなかった部分に出会うこと」で小さな驚きはあるかもしれないが、全体的に見るとそれは小さい要素だ。

作品が更新されないからこそ、自分や他のファンらでその世界を再体験し、そしてその世界にどっぷりと浸かっても段々と虚無になっていく。既に作品は終わっているのだ。しかし、それを愛しているのでその世界から離れることができない。そういったジレンマがある。



最初に出したクレしんの映画での"オトナ"は紛れもなく「自分」だと、鑑賞していて思った。そして、しんのすけは「あの頃のわたし」だ。"オトナ"がなぜ懐古に取り憑かれるのかも理解できないまま、懐古の原点を経験する。そして、いずれ"オトナ"になる。



このブログは、そういった意味での「懐古」の象徴だ。イナGOの「知らなかった部分」の小さな驚きを求めて、その世界を端から端まで味わう。懐古は危険だが、その魅力にどうしても私は抗えない。だって、好きだから。イナGOを愛しているから。

理解されないかもしれない。理解する人もいるかもしれない。それでいい。

ただ、懐古にいくつか危険性が孕んでいたとしても懐古を続ける人間がいるのだということをあなたに伝えたい。




最後に。


クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』観てください!!!!
あなたの人生観はきっと変わると思います。それだけの名作です。




ここまで閲覧して頂きありがとうございました。